帆立貝 休職にいたるまで

高校の頃の話になるが、当時の私はまあまあ忙しく一見充実した日々を送っていた。私は陽気で気分屋な母との二人暮らしで、毎朝母とふざけてあいながら家を出た。高校は自転車で行ける程度の近さで、学校に着いてからは気の合う友人と走り回り、放課後は最高のメンバーと部活をして、お腹を減らして帰宅した。...さすがに良いところだけ書いてはいるが、そんな感じだった。

そんな楽しく恵まれた日々を送っていた訳だが、ある日私は、この日々にはなにかが足りないなと思った。あるべきものがないのか、ないべきものがあるのか。うーん。

そして気がついた。

例えば、私に80年の時間が与えられているとして、それは本来途方もない長さのはずである。高校生の私もすでに16年というそれなりに長い時間を使ってきているはずだ。でも、私はその16年を、16年として使ってこれただろうか。私は、1時間、時には5分、という使い方しかして来れなかったのではないか。社会が求めることが、私にそうさせなかったのではなかったか。もともとブロック肉だった私の時間は社会によってこま切れ肉になっている。ブロック肉だったらできたことが、こま切れになってしまった事で出来なくなっている。そしてその喪失は、やはりこれもまた社会によって見えなくなってしまっているのだ。なぜなら、それが当たり前だから。

今だって高校がなければ、私は何か月もひとつのことに費やせていた。途方もない工作や研究、くだらないコラージュ作品、一生役に立たない知識をどこまでも深めたり、あるいはバイクの免許をとって富士山までツーリングできたかもしれない。これにはもちろん、子供が労働しなくてよい社会という前提があるのだが(学校を悪役のように書いてしまったが、労働から解放した一因もまた学校である)。

だから1年くらい逃避したいなと思った。とはいえ高校は楽しかったし、さすがにそんなぼんやりとした理由で留年する度胸はなかった。卒業後は大学に行くつもりだった。だから、大学で休学しよう、そのために志望校へ1発合格してやろうと思った。でも私に明確な志望はなかった。特段なりたいというものがない。やっと一大決心したのは、冬が深まりきった後であった。

ということで、高校が終わった時、私は行く大学も職場もない、フリーターになったのだった。

次の年に私はとある大学の医学科へ進学した。今度こそどこかで休学してやろうと思った。でも、十分なお金がなかった。それに一人で何かをしたことも無かった。このままだとよくいる大学生バックパッカーみたいな、節約しながら各国を回ってSNSに挙げるだけの人になってしまう気がした。あれには正直惹かれなかった(すみません)。大学は普通に卒業して、初期研修医も終えて、その後に休職しようと思った。先にはなるけど、それくらいなら、経済力も判断力も幾分まともな気がした。

無事初期研修を終える段階になり、私はやっと行動に移そうと思った。休職希望の旨を就職後に伝えてもしも「それなら採らなかったのに」とか言われたら大変なので、志望病院には応募段階で伝えた。案外快く、承諾いただいた。(本当に関係者各位には感謝しかありません。)

「来年の4月から8月まででしたら、大丈夫です。」という返事だった。

それが今から1か月前の12月。4か月後からという急なお暇となった。

さて、もうそろそろ、計画を立てないといけない。

 

*タイトルは、リンドバーグ夫人の著書「海からの贈り物」のオマージュです。